1945年、第二次世界大戦が終わりを告げ、インドの独立がいよいよ現実味を帯びてきた頃。そこには、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立という、独立を前にしたあまりに苦い課題が残されていた。
「パキスタン」としての分離独立を主張するイスラム教徒のリーダー、ジンナーに対し、ガンジーは独立決定後も両信徒の融和のために命を懸けた。朝4時から一軒一軒イスラム教徒の家を訪ね、「我々は兄弟なのだ」と説いて回るその姿は、政治家というよりは聖者のそれであった。
1947年8月15日、インドは悲願の独立を果たす。しかし同時に、パキスタンとの分離という悲劇的な分断を余儀なくされた。この和解を憎む右翼勢力の手により、1948年1月30日、ガンジーは凶弾に倒れる。最期の言葉は、かすかな「ヘー・ラーム(おお、神よ)」であったという。
「盗み」と「父の涙」:非暴力の原点にある少年時代の記憶
ガンジーがなぜ、これほどまでに「暴力」を排し、「愛と忍耐」を貫けたのか。その原点は、彼が13歳の時に犯した「盗み」の告白にある。
兄の借金を返すため、金の腕輪を少し削って売ってしまった若き日のガンジー。借金は返せたものの、心には「お前は盗みを働いたのだ」という声が響き続け、一睡もできないほどの苦しみに苛まれる。彼は意を決して、父にすべてを記した手紙を書き、「罰を与えてください」と請うた。
病床でその手紙を読んだ父は、息子を打つ代わりに、手紙が滲むほどの涙を流し、黙ってその手紙を引き裂いた。ガンジーは語っている。「父はムチを持って責める代わりに、愛の涙を持って私に接してくれた。この姿を私は死ぬまで忘れない」と。この経験こそが、悪を善に変える「非暴力」の魂の種となったのである。
東西の英知が結びついた「愛敵」の哲学
ガンジーの思想は、故郷グジャラート地方に伝わる古い歌と、留学時代の聖書との出会いから形作られた。
「1杯の水を恵まれたら、たくさんのご馳走で返せ。この世のいかなる悪人も善をもって報いよ。それこそが悪を善に変えるたった一つの道である。」(グジャラートの歌)
そして、新約聖書の「山上の垂訓」にある、「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」という教え。ガンジーはこの二つの教えを自分の中で結合させ、一生をかけて「敵を愛し、迫害する者のために祈る」という哲学を実践したのである。
まとめ:アジアが生んだ、宗教的・農本主義的な英雄
ヨーロッパの英雄たちが「科学や芸術」による豊かさを追求したのに対し、アジアの偉人たちは「虐げられた人々を救う革命家」としての側面が強い。ガンジーもまた、150年以上