映画『セザンヌと過ごした時間』レビュー:エミール・ゾラ「制作」の行間に潜む、芸術家たちの血の通った絶望と栄光

現在Amazon Primeで視聴できる映画『セザンヌと過ごした時間』。この作品について、一人の表現者としての視点から深いレビューを記しておきたい。本作を観る2年ほど前、私はエミール・ゾラの小説『制作(L’Œuvre)』を古本屋で手に取った。その黄色く色褪せたページの中に、芸術家として生きるための秘められた「鍵」が隠されていると直感したからだ。

フランス語で「作品」を意味する『ウーヴル』に、日本語で『制作』という訳語を充てた先人のセンスには脱帽する。小説の中で今も忘れられない場面がある。主人公の画家が朝目覚めた瞬間、魂が最も純粋な状態で、自身のキャンバスに向けられる視線の鋭さ。あの「制作中」の画家の目、その鮮烈な感覚を見事に捉えた文学作品を、私は他に知らない。

パラレルにシンクロする「小説の世界」と「映画のプロット」

映画は、このゾラの小説と現実のセザンヌの人生を、見事なまでにパラレルに描き出していく。かつて親友だった二人の間に、小説『制作』の刊行が決定的な亀裂を生んだ事実はあまりに有名だ。映画は、その痛ましいまでの確執を丁寧に、そしてあまりに説得力を持って提示する。特に1時間4分、そして1時間30分からのシーンは、芸術に関わる者なら息を呑まずにはいられないはずだ。

ゾラの屋敷で開かれた晩餐会。セザンヌは、自分の絵に対する酷評と、自身の性格への容赦ない批判を、屋敷の外で立ち聞きしてしまう。暗闇の中で孤独に打ち震えるセザンヌの姿。かつて、サロンの片隅に寂しく、目立たないように飾られていた彼の絵の運命と、その姿が重なり合う。絵画とは何か?芸術とは何か?その答えは、映画の中で交わされる生々しい会話の中に、鋭く刻まれている。

「彼は天才だった、でも花開かなかった」という残酷な結末

物語の白眉は、二人の生まれ故郷である南仏エクサン・プロバンスの場面だ。小説『ナナ』の成功で富を得たゾラが、家族を連れて帰郷する。そこで彼がインタビューを受けている様子を、セザンヌは物陰から密かに見つめるのだ。かつての親友から放たれた言葉はあまりに冷酷だった。
「彼は天才だった、でも花開かなかった」

この言葉を背負い、セザンヌは一人、静かに去っていく。後の名声を知る我々から見れば、歴史の皮肉に胸を締め付けられるシーンだ。1902年、ゾラは謎の死を遂げるが、その文学的献身は歴史に刻まれた。そして、人知れず涙を流し続けたセザンヌもまた、1906年、肺炎で絵筆を握ったままこの世を去った。画商ヴォラールの尽力により、彼が真の名声を得たのは、その最晩年、あるいは死後のことだった。

「悪口こそ人生、無視される方が嫌だ」

セザンヌが劇中で語るこの台詞は、現代を生きる我々の胸にも突き刺さる。マティスが「絵の神様」と崇め、ピカソが「我々の父」と呼んだセザンヌ。彼の魂が投影された作品は、いまや世界中の美術館で至宝として扱われている。無視されることを何よりも恐れ、執念深く描き続けた彼こそが、真の勝利者だったのかもしれない。

もし、いつか自由な旅ができる日が来たら、パリから北東、サン・ラザール駅から電車で向かうメダン(Médan)の町にある「エミール・ゾラの家」を訪ねてみたい。そこには、二人の魂が交差した時間が、今も静かに息づいているはずだから。


映画情報
『セザンヌと過ごした時間』(原題:Cézanne et moi)
Amazon Primeにて配信中

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Google Map:La Maison d’Émile Zola