
彼は2004年度の高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部分の受賞者ですが、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。ネオ表現主義の画家です。
大胆な色使い、力強い筆運び、民族的な主題の取り入れ方、彼はこう言います
「私は自分の人生のために絵によって先入観と戦います。」
ゲオルグバゼリッツは1938年1月23日東ドイツで生まれました。

私が彼の実物の作品を見たのはフランクフルトの美術館とシュツットガルト美術館です。
荒々しい表面を持った彫刻そして逆さまになった絵画は実に不思議で迫力があり素晴らしいアートだと記憶しインスピレーションになっています。
彼の絵画は日本でも国立近代美術館で開かれた台湾のコレクター展にも出品されていました。
1945年ドイツの敗戦後、ドイツは自らの国の優位性やナショナリスティックな表現を禁止するようになりました。
そんな中、1980年のベネチアビエンナーレのドイツパビリオン。
画家アンセルムキーファとバゼリッツの展示はスキャンダルを巻き起こしました。
どうしてかというと、
ナチスドイツを感じさせるような右腕をあげた木彫を制作したからです。
彼は芸術において個人の表現者として、民主主義国家での表現の自由を作品で強烈に主張しました。
ゲオルグバゼリッツのアーティストへの芽生え

芸術への芽生えは、戦争中のドレスデンで、父の机の上にあったノルウェーの画家エドワルドムンクのマドンナです。
1956年東ベルリンの美術アカデミーで「社会政治的未熟」と評価され退学させられます。18歳の彼はパブロピカソのスタイルで絵を描くことを貫きたかったのです。
その後西ベルリンのアカデミー1957年に転向し、1963年にマスタークラスを卒業したのです。
そこでは、当時アート界で流行していた抽象芸術運動に精通し、その現場に抗議して表現力の豊かなリアリズムに目を向けました。彼はウィリアムデクーニング、フィリップガストン、ジャクソンポロックの影響を受けていると述べています。
ゲオルグ・バゼリッツの精神性

ベルリンの壁が建てられたのは1961年です。
その学生当時、彼は「私は強気で手におえないぎこちない男でした。そして全てを拒否していました」と。
そのスピリットは今でも全く変わっていません。
この時、彼は本名のハンスゲオルグカーンから出身地であるドイツバゼリッツ村の名前をとりました。
彼の個展は1963年にベルリンのギャラリーウェルナーアンドカッツで開催されました。
この年の彼の2つの絵画はスキャンダルを巻き起こし、当局に没収されました。世界的に有名なマイケルヴェルナーというギャラリストによって作り上げられたストーリーかは不明ですが、
この1連の騒動によって彼は、「普遍の反逆者」 のイメージを確立したのです。
アートの市場で彼の作品の評価が低いままである理由は、女性蔑視の発言やアートイベントのドクメンタを「パラリンピック」と呼ぶなど異端者の評判は世界中に届いています。
彼は社会に対する自分の立場について常に考える芸術家なのです。
イタリア留学と「逆さまの絵画」

1965年にはフィレンツェで奨学金を得てイタリアのvilla romana に留学します。
その地イタリアで、マニエリスムの画家ポントルモやロッソフィオレンティーノにひかれ、古典的絵画からボロボロの戦闘服を着た「英雄(ヒーロー)」絵画を制作するようになりました。
27歳の芸術家が描いたのは、神秘的な廃墟の中の風景に、巨大で壮大な男性像を描いた1連の絵画でした。
彼のモチーフは美術史、ロシア社会主義、自身の生い立ち、花、人物、立木、鷲などの鳥です。
そして1969年バゼリッツを象徴する「逆さまの絵画」を制作し始めます。
モチーフの転倒と言う表現は、モチーフにとらわれない自立した絵画を生み出したとして、モダニズム絵画において高い評価を得ています。
彼は「現実とは絵画である。それは決して絵画の中にあるものではない」と述べています。
絵画の純粋性を表現するためのもので、モチーフから連想される意味や解釈から絵画を解放し、絵画としての抽象的なコンポジションの性質を強調したのです。
彼の絵画は、人の見方を変え、視覚を研ぎすまし、人々に疑問を生み出すことに成功したのです。
これは一体何なんでしょうか?と。
国際的な評価
1970年代はコンセプチュアルアートが流行していていましたが彼はその流れに見向きもせず黙々と絵をかいていたのです。
1980年代までに彼は国際的な評価を確立しました。それは1972年と1982年のドクメンタ5、7。
そして前述のドイツパビリオンでの、画家アンセルムキーファとバゼリッツの展示でスキャンダルを巻き起こした1980年のベネチアビエンナーレです。
そして、王立アカデミーで行われた1981年ツァイトガイスト「絵画の新しい精神」により国際的な評価を確立しました。
記念碑的な木彫の彫刻
1980年代初頭から彼は素朴で不規則な形の記念碑的な木彫の彫刻をつくりました。
そして2005年には「リミックス」と言う過去の作品と現在の作品を混ぜ合わせる新しいシリーズを制作し、人気を博しています。
近年では大きな板に彫刻刀で切り込みを入れる木版画も手がけています。
彼は現在も世界中での美術館で大規模な個展を開催しています。
2015年にはベニスビエンナーレのドイツパビリオンで特集されました。
彼は階段を下っている裸婦の作品や、便器で知られるコンセプチュアルアーティストのマルセルデシャンを「私が最も嫌う画家」と言っています。
自分の人生から絵を描く事は決してない

自分の人生を絵に持ち込まない。
2013年には妻と一緒にザルツブルグの古城に引っ越しています。初期の逆さまの肖像画の多くのモデルは妻のelkeのようにも見えますが、妻をモデルにした事は1度もないのです。
彼は芸術表現についてこう述べています。
「音楽、文学、演劇などと違って絵画や彫刻制作は孤立の表現である。
第三者の介入がなく1人で孤立して対峙しなければならない。
孤立独立を欠いた表現は芸術の終わりである。」
それが彼の絵画が「破壊絵画」と呼ばれる所以である。
ガゴシアンでの展示風景セレクト
https://gagosian.com/exhibitions/2020/georg-baselitz-what-if/
https://gagosian.com/exhibitions/2019/georg-baselitz-devotion/
https://gagosian.com/exhibitions/2016/georg-baselitz-jumping-over-my-shadow/