
フランシスベーコンがイラストレーションを否定し絵画が絵画であることを推し進めた。そしてそれと同様にピータードイグが絵画性を追求し、イギリスのアートマーケットは、美術商によってこの高額商品となり得る「絵画的であること」を基準に選ばれていった。
だがどうだろう今、世界はイラストアートが席巻している。筆跡を消しフラットに、イラストがそのままキャンパスに写し取られる形によって描かれた作品たち。
これはジャクソンポロックから始まる近代化の大きな転換点を迎えていると言うことだ。つまり1945年戦後から始まった大きな絵画ブームは2008年のバブル崩壊、そしてコロナ禍の中において大きな変動を迎えている。
それはコロナによってオンライン化が進み、オンラインで見られる形状や形そして色彩のみが評価の対象となっているからだ。オンラインで作家性が分かるものがアートの中心にある。
五木田智央がそのいい例だろう。この大きなうねりは、大上段に構える西洋に対する日本人の反逆でもある。草間のやったネットペインティングはその布石となり、村上や奈良が推し進めた絵画性は終焉を迎えつつあり、新たなフェーズに入った。
それを否定するように立ち上がってきたのがイラストレーター出身のアーティストたちだ、天野喜孝や田名網敬一などがそれにあたる。その真逆を走ってきたのが横尾忠則だ。彼はイラストレータ出身から海外の憧れを持って、つまりフランシスベーコンやゲルハルト・リヒター、ドイグと絵画性の継承。これに憧れを抱き画家宣言をしたのだった。
だがどうだろう時代はバンクシーやカウズの登場によって、つまりそれはグラフィティと言う道端に描かれた落書きの渦の中、独自性を模索し、カラフルな雑踏の中に埋もれない自らのキャラクターやタグ。それを描き出す戦いの中において勝ち残ったアーティスト。それはつまるところイラストだったのだ。
アートマーケットはオンライン化によって、このひと目見てわかるモチーフやキャラクターを待っていると言える。その意味で加藤泉は絵画性を肯定しながらもキャラクターの創出に成功しているアーティストの1人だ。
その背景にあるのはアジアの大きなマーケットだ。台湾に見られるようなハローキティの成功だろう。あらゆる場所で見る「口のない猫」と言う何かを引き算したキャラクターがオリジナリティーを生み、このイラストレーションこそが新しい時代を切り開いたアートになってしまったのだ。
それを証明するように2018年に行われたユニクロとカウズのコラボTシャツの中国での大行列はまさにイラストが絵画に勝利した瞬間だったのだろう。オークションの結果を見ても草間の素晴らしいネットペインティングよりも、誰が見てもわかるかぼちゃの小さなリトグラフの方が人気があると言うのは2つ目の証明となろう。
西洋社会によって作り上げられたポールゴーギャンやポールセザンヌから始まる絵画。絵画であること。そうそれは写真の発明による絵画の反抗だった。絵画は世界のグローバル化とともに押し進められてきたが、実は大英帝国の権威主義の残党と言えるのかもしれない。
世界は2020年コロナウィルスによって美術館で芸術家の筆跡や息づかいを鑑賞することによる評価が価値を失い、オークションで見るカウズやバンクシー草間といった、ひと目見てその作家とわかる作品に評価が集中している。なぜならば、オンラインでその作品を見ることしかできなくなったからだ。
日本のアートの現在。
東京には六本木、天王洲、表参道渋谷と言う3つのギャラリーが集まるアートエリアがある。ある意味この3つのエリアのコレクター呼び込み競争と言っても過言ではない。
近年行われた安藤忠雄の建築で始まった東急東横線の地下化による渋谷の再開発。マルイのリノベーションによるモーディ、パルコの建て替え、東急プラザの短期間での建て替え。ニューミュージアムを似せて作られた渋谷ヒカリエ。さらに〇〇スクエアなど、軒並みに複合施設がオープンしている。渋谷の勢いが止まらない。
六本木も土地に限界があり、森ビル森美術館、ミッドタウンはもうすでに時代遅れとなっている。コロナ禍において森ビルの森美術館が三密を避けられないエスカレーターによる密閉された、抜けのない空間はすでに時代遅れの建築となった。
その意味においてサーナの建築した金沢21世紀美術館は窓を常に開き放つことができ、地上階に位置し、美術を鑑賞しながら密を避けられる最高の建築と言うことになった。
金沢は東京国立近代美術館工芸館の金沢移転も含め、工芸のブームを牽引している。だがしかし、アートに目を移してみれば工芸はあくまでも用の美を兼ね備えた日用品。それはアートではない。
このブログではあくまでもアートにトピックスを絞っている。アートの現代における変化について語りたいと考えている。
原口典之がなくなり、最後に残したメッセージがvimeoのレンタルコンテンツによって配信された。それによれば日本の近代化においてモノ派がいかにして生まれたか、そして近代アカデミックの美術教育にいかに反発したかと言うエピソードが描かれ語られている。
それによれば、ビーゼミと言う小林が始めた美術研究所によって美術家たちが集い、切磋琢磨することによって今までのアカデミックな美術教育にない日本の美術を作り上げた。
それは自然界の木や石といった日本人が持っている輪廻転生、古来からの万物に神様が宿ると言う価値観を作品に込めたものだった。原口典之や榎倉康二は自然界の物と言うよりは物質と言うものに目を向けていた。
そして、これが今まで近代化が行われた西洋の美術とは全く異なる日本独自の美術となったのだ。
では改めて現在の日本を見てみよう。コロナウィルスによって外出規制をされ、実物の絵画を目にする機会もなくなった今、美術はイラスト化、キャラクター化しているのではないだろうか。人が見て誰の作品かわかるようなミューラルやグラフィティこそが評価を高める。絵画の巨大化、そして収集癖を満足させるためのF12号ほどのサイズの絵画がロレックス化している。つまり高級品として流通しているのだ。
グラフィック系のアーティストがセカンダリーマーケットにおいて10倍にも高騰している現状を見ればこの論理が正しいことがわかるだろう。
今、アーティストにもデータサイエンティストのような考え方が必要だろう。どのアートが時代を掴み、新しい時代を切り開くのか?実際に展覧会に足を運び、自らの感性で答えを導き出し楽しみを見つける。
だが、実際問題アートをやる、絵画をやると言う事は自らどちらかを選択すると言うことだ。自分の信念、自分の魂をどこに置いて絵と向き合うか?そこが問題だ。
2010年代に築かれたスタジオ食堂から始まり、ドットへの流れた絵画。そこ出身のアーティストが支配していた時代から今彼らが大学の教鞭を取る側に回り、おそらく近現代の現代美術は保守的となるだろう。なぜなら彼らが得た既得権益、彼らの技術をさらに若い者に伝授していこうとするからだ。だが実際、学生たちはどうだろうか?アートマーケット、アートワールドの中で生き残ってきた作家は体制に反対した反抗分子たちだ。
大学のアカデミックなアートになったモノ派や具体さえも対抗要素となった今。新しくグラフィティ、ミューラルアート、ストリートアート出身のイラストレーター、デザイナーがアートに参入し盛り上げている。
この大きな流れはこのコロナ禍において確固たるものとなり、サーフィンのように良い波に乗れなければ時代遅れなものとなってしまう。あと10年後20年後に絵画が復権される時が来るだろう。それはIT化が進み人間の手仕事の良さ、手技の良さ、筆跡の美しさ。これが再評価されるからだ。だが今この大きなキャラクターブームの中にあって、それを拒む必要は全くない。
ならば、とことん自分のオリジナルなキャラクターを生み出すこと。そしてその価値のある確固たる信念のもとに大量に作品を制作し、イメージを流布させること。
そう。それは町中に自らのタグを描くグラフィティーライターたちのように。。。
2020年12月4日前衛彫刻家飯沼英樹