【驚愕】これだけは、この1枚だけは見届けてほしい。ゲルハルト・リヒター展、オープン初日レビュー

皆さん、こんにちは。現代美術家の飯沼英樹です。本日は、東京国立近代美術館で開催された『ゲルハルト・リヒター展』のオープン初日に駆けつけた私が、その衝撃と深い感動を余すところなくお伝えします。

余談ですが、6月24日から西麻布のSNOW Contemporaryにて私の個展も始まります。リヒターが問い続けた「視覚」の先にある表現を、私なりの形にしていますので、ぜひ併せてお越しください。

1. 門外不出の「フォト・ペインティング」に震える

まず、本展の最大のハイライトは、作家自身が誰にも譲らず手元に残しているコレクション群、特に「フォト・ペインティング」の名作たちを間近に拝めることでしょう。

私は開館と同時に会場入りし、中ほどにあるコーナーへ直行しました。かつてパリのポンピドゥー・センターで対面した『フラワー』。ピンクの花と濃緑の葉が織りなすこの作品は、ぜひ斜め下からしゃがみ込むようにして見てください。

驚くべきことに、ピンクの花の部分だけがエナメル質のような光沢を放ち、周囲の草はマットな質感で光を吸収しているのです。背景のクリームグリーンで縁取られた葉の輪郭、そして筆で弾くように描かれたストローク。質感の対比によって形態を浮き彫りにするこの実験的表現は、まさにリヒターの真骨頂と言えます。

2. 具象から抽象へ。モンドリアンを彷彿とさせる「実験の軌跡」

展覧会のリストが年代順に整理されている点も、実に教育的で素晴らしい試みです。初期の象徴的な1枚『モーターボート』(1965年)から、現在のアブストラクト・ペインティングに至るまでのプロセスは、まるでピエト・モンドリアンが抽象へと脱皮していく過程を追体験するかのようです。

特に私が足を止めたのは、15分間の映像作品でした。金槌で叩き、ノコギリで切る……。あのアトリエの風景には、リヒターが一生をかけて挑み続けた「写真と絵画」という美術史的な問いに対する、泥臭いまでの制作プロセスが凝縮されています。

3. 【批判的視点】『ビルケナウ』に見る写真の暴力性

ここで、避けては通れない批判的なポイントについても触れなければなりません。それは、ホロコーストというドイツの凄惨な記憶に向き合った『ビルケナウ』の展示空間です。

展示室の壁に掲げられた、アウシュヴィッツの特別労務班が隠し撮りしたという4枚の写真。これらはリヒターが絵画の「元」としたものですが、あまりにもグロテスクであり、剥き出しの衝撃を観る者に与えます。特に左端の1枚。このインパクトは、小学生や中学生にトラウマを植え付けかねないものです。

写真という媒体は、一瞬で現実を説明し、観る者を不安の渦に突き落とします。リヒターはこの「写真の恐ろしさ」に対し、絵画というマテリアルで挑みました。筆とキャンバス、そして重なる絵の具を通じて、心の中の想いと対話し、折り合いをつけていく。「絵画だからこそできること」がそこにあるはずなのに、あえてその「答え」の横に強烈すぎる「写真」を展示する必要があったのか。写真のインパクトが、絵画という試みを無効化してしまっていないか。私は強い疑問を抱かずにはいられませんでした。

4. 「何もないこと」を示す究極のグレーとカラーチャート

リヒターが「何もないことを示すのに最適だ」と語ったグレー・ペインティング。一見、単調に見えるその灰色は、ローラーや刷毛の跡が光の陰影を取り込み、見る角度によって無限の表情を見せます。光の反射と吸収。そこに絵画の意味を問い直す知性があります。

そしてカラーチャート。ケルン大聖堂のステンドグラスをも彷彿とさせる、繊細な色のチョイス。そこにある黒は単なる黒ではなく、白もまた純粋な白ではない。これまで彼が使ってきた色彩たちが、解体され、再構成されたようなその眺めは、実に魅惑的です。

最後に:旅をする芸術

今回の東京展には出品されていませんが、実は富山県立美術館には、リヒターが『ドキュメンタ』で発表した極めて重要な抽象作品が所蔵されています。東京で彼の実験の形跡に触れた後は